名 称

びぜんこくぶんじ・りょうぐうざんこふん

地 域

赤磐市南西部

距 離

約8km

日 付

2024年4月14日

天 候

晴れ

同行者

古代吉備国を語る会の仲間たち

アクセス

JR岡山駅から宇野バス美作(みまさか)線で約30分、馬屋バス停で下車

マップ

    

このマップは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたものを使用しています。

コース概要

馬屋バス停高月駅家跡朱千駄古墳備前国分尼寺跡備前国分寺跡両宮山古墳
野山古墳群(昼食)岩田14号古墳赤磐市山陽郷土資料館
※「古代吉備国を語る会」会長の出宮德尚先生のレクチャーを受けながらの散策です。
  赤磐市山陽郷土資料館学芸員さんの説明を含め約5時間の行程でした。

1.高月駅家跡

 馬屋バス停に着くとすでに大勢の仲間たち。高月駅家跡はバス停に隣接している。参加票を記入して資料をいただく。当日のコースが記載された地図、B3判の詳細な解説文2ページと図表2ページだ。
 かつて、都から太宰府へ通じる古代山陽道が東高月遺跡群の地域を横切っていた。古代山陽道には馬の中継所、休憩所として一定の間隔(原則4里、令制では30里で約16km)で駅を置き、駅家や馬屋が建てられていた。記録(平安時代の法令集『延喜式』)には、備前國にある山陽道の駅は、坂長駅、珂磨駅、高月駅、津高駅の四駅が記載されている。赤坂郡南西部が高月郷であり、その一部に「馬屋」という字名があることから、この場所が高月駅と推定されていたが、発掘調査で道路状遺構が発見されて駅家跡であると判断された。

2.朱千駄古墳

 県道岡山吉井線を渡って道なりに300mほど進むと、竹が茂った一見して古墳らしい盛り上がりが見える。その手前を後ろへ回り込む。

 何となく入口のような部分が認められるのだが足場が悪くて近づけず、そのまま直進する。

 小高い場所へ上がると、「振り返って見えるのが後円部です」との説明。ということは、今立っているのは前側の方墳の上ということだ。その間にはビニールシートのようなものが被せられていて地形が定かでない。てっきり円墳と思っていたのだが、実は前方後円墳だった。全長85m・後円部径40m、後円部の高さ6.5mで5世紀末に造られたとのこと。
 石棺は竜山石製で、岡山県立博物館の前庭に展示されているそうである。棺内から多量の朱が出土したのが古墳名の由来とか。

3.備前国分尼寺跡

 穂先集落を東へ進んで最初の十字路を左折すると、右手に池が見えてくる。ここは、古代山陽道を挟んで備前国分寺と対称に位置する備前国分尼寺跡である。本格的な調査が実施されていないので詳細は不明であるが、推定寺域から国分寺のものと同様の瓦が出土しており、礎石と窺われる石材が見られる。現在ではその東半分が溜池(仁王堂池)、西半分は農地になっている。

 備前国分寺からの距離は約300m。解説板以外に一見してこれとおぼしきものは見られないが、東に向かう山陽自動車道が左へカーブするあたりの山間に遠く熊山が、また南東には古代山城の大廻小廻山城跡がある大廻小廻山が望まれる。視界から山陽自動車道を消し去ると、なんとも雄大で、国分寺・国分尼寺が造営されるに相応しい景観である。

4.備前国分寺

 山陽自動車道の下をくぐって直進。左に「中門(ちゅうもん)」の解説板を見ながら進み、最初の角を右折する。

 この一帯が備前国分寺跡で、東西175m・南北190mの寺域に国分寺式伽藍配置が確認されている。天平13年(741)に聖武天皇の命により全国に一斉に造られた国分寺の一つで、国指定の史跡である。

        赤磐市教育委員会社会教育課『赤磐の文化財』から「備前国分寺跡 想像図」より

 平安時代末に講堂と北側の回廊が焼失。鎌倉時代以降に講堂が縮小して建て直されるが、講堂跡地の一画に小さなお堂が残り、かろうじて寺院跡を伝えていた。しかし戦国時代に廃絶し、後に建立された石造七重層塔と祠が寺の面影を偲ばせるだけになっている。

 石造七重層塔の下の礎石は残存する往時の塔心礎で、他は模擬礎石を置いている。塔の基壇は発掘調査成果から復元したものである。

 出土遺物は瓦片が主で、単弁蓮華文軒丸瓦と唐草文軒平瓦、それに多くの文字瓦(万葉仮名が刻まれている)が見られる。これらは山陽郷土資料館に展示されている。国分寺西に見える石鳥居は国分寺八幡宮、手前右側の寺域内には講堂跡地から移設された小さなお堂が見えている。

5.両宮山古墳

 備前国分寺跡から東へ進んで、民家の横から両宮山古墳の堤へ上がる。両宮山古墳は周囲に二重の周濠(しゅうごう)をもつ大形前方後円墳である。現在は外堀はすべて埋没していて、我々が歩いているのは内堀の堤である。

 古墳を左手に見ながら進んで行く。

 両宮山古墳は全長206mの三段築成の巨大前方後円墳で、後円部径100m・同高23m・前方部幅120m・同高23mである。墳丘の形状から5世紀後半に築造されたと見られている。墳丘内部は未調査であり葺石や埴輪は見つかってない。

        赤磐市教育委員会 パンフレット『国指定史跡・両宮山古墳』より

 いったん堀の外へ下りて墳丘入口の細道から登って行く。

 坂道を上りきったところが二段目の部分で両宮神社が建つ。

 墳頂に登りたいところだが、ヤブ化していて大人数で踏み込むにはムリがある。両宮山の近辺には和田茶臼山古墳や森山古墳、廻り山古墳などもあるが、次の野山古墳群へと移動する。

6.野山古墳群

 野山古墳群は山陽団地の中央部、赤磐市立山陽西小学校を見下ろす丘陵にある。古墳群を訪れる前に、中腹の弥生公園でランチタイム。花見スポットだが数日の気温上昇でほほ散っていて残念。が、弁当にふわりと花びらが一片。ゆっくり休んで午後の部の行動を開始する。

 野山古墳群には13基の古墳がある。記録保存の下に消滅する古墳が多かったなかで、現状のままで保存されることになったものである。2号墳と5号墳は発掘調査され、どちらも2基の箱式石棺があり、副葬品の勾玉や鉄器が出土している。両古墳とも5世紀の築造と考えられている。
 傍らに「遺跡之碑」が建っている。山陽団地の開発によって40基以上の小古墳が消滅しており、碑の裏面には、これらを慰霊する文が記されている。以下にその全文を記載しておく。

   山陽団地遺跡は郷土の歴史を明らかにし我が国の原始古代史を解明するうえで重要な遺跡であった
   岡山県営山陽住宅団地開発事業に先立つ昭和四十四年十月から昭和四十九年十二月まで五年余を費
   やして発掘調査を行ったのである
   調査遺跡は左記の用木山遺跡をはじめとする弥生時代集落址十遺跡 四辻土壙墓遺跡ほか台状墓七遺跡
   用木古墳群他古墳七支群約四十基に及んだ
   この碑はこれら遺跡を残した郷土の祖先の遺徳を偲びこの地に眠る諸霊を合祀し鎮魂と共に調査の
   記念とするものである
       :
   (調査遺跡・古墳群名と古墳数の一覧は省略)
       :
     昭和49年11月
     山陽町教育委員会山陽団地埋蔵文化財発掘調査団

 頂上には三等三角点標石がある。中央部に集合して説明に聴き入る。

 個々の墳丘は明瞭でなく連なっているようだ。写真左は西側から中央部を、写真右は中央部から東側を眺めた様子である。

7.岩田14号古墳

 丘陵を下りて、赤磐市立山陽西小学校前を通って岩田14号古墳へ向かう。

 6世紀中頃に造られた全長11.8mの横穴式石室の円墳で、この地域の支配者の墳墓とみられている。石室の天井石は持ち去られていて復元したもの。環頭太刀2点を含む直刀5点をはじめ、金環や雁木玉など多数の玉類や馬具のほか須恵器と土師器など多種多量の副葬品が出土し、これらは山陽郷土資料館に展示されている。

 疫隅(えすみ)神社から山陽老人福祉センターへ移動の途中、林の中に円墳を見つける。このあたりにも複数の小古墳があるようだ。

8.赤磐市山陽郷土資料館

 山陽老人福祉センターから門前池(もんぜんいけ)の脇を通って郷土資料館へ向かう。

 今回の最終見学先である赤磐市山陽郷土資料館へ到着する。ここでは、赤磐市の遺跡から出土した縄文時代から奈良時代の考古資料を中心に展示している。また、山陽団地の造成に伴う発掘調査で出土した分銅形土製品、雁木玉、環頭大刀、鏡をはじめ、備前国分寺跡から出土した瓦などを、写真やパネルで解説している。学芸員さんのわかりやすい説明で、なお理解を深めることができた。